絵の上手さというのは色々と考えはありますが、 (描く本人の)主観的な絵の上手さと、 客観的な絵の上手さは別々に考えるべきです。 また、絵が上手いか上手くないかを、 才能というものの有無で決めつけるのは 最初は上手くなかった人に失礼でしょう。 才能が無いのではなく「意識」が無いだけであり、 才能というのは意識した果てに見える壁です。 自分で作った見えない壁に阻まれてるのは滑稽です。 「意識」は認識や意思、思考や想像などを含みます。 人間は意識を使って生活をしていますが、 その意識の質や形、濃度や量は人それぞれです。 数学が苦手な人は数学のための意識に乏しく、 漢字が苦手な人は漢字のための意識に乏しい、 というようなイメージです。 「才能」と決定的に違う点は、基本的な意識は誰でも 意思と良い知識さえあればできるということ。 絵の基本も同じことです。 才能は基本ではなく、極限の壁です。 そして、最初から上手いという才能というのは、 より良い意識を最初から持てているだけです。 まあ、より良い意識を常に持てるかどうかは、 人生を捧げるくらいでないと難しいものですが。 | |
(描く本人の)主観的な絵の上手さは大きく二つ。 1.思い通りに描けること、描けていること。 2.より良いと思えるイメージをできること。 客観的な絵の上手さも大きく二つ。 A.状態が整っていること(※超広範囲の定義) B.興味を惹かれるものであること | |
まず1の思い通りに描けることというのは文字通り、 線や色などを思ったとおりに描画できることです。 思い通りの絵を描くために思い通りの描画は不可欠。 人によっては血の滲むような練習の末に身につけますが、 一切の練習もなく思い通りに描ける人間は稀です。 むしろ、人間だと思わないほうが気が楽でしょう。 ほとんどの人は思い通りに描けるよう練習をし 思い通りに描き続ける為、絵を毎日のように描きます。 見描想を怠らないこと。 2のより良いイメージをできることというのは、 Bの興味を惹かれるものであることと重なります。 しかし主観的な興味と客観的な興味が、 必ずしも重なってくれるわけではありません。 もちろん、人によっては客観的な興味を惹けるか、 それを考えてより良いイメージをしようとします。 特に仕事としているような人は、 客観的な上手さであるA・Bが不可欠ですし。 それでも何も思い浮かばないというのは論外です。 思い浮かぶ為に色んなものを見たり描いたりし、 様々な情報を沢山蓄えていきましょう。 | |
Aの状態が整っていることというのは、 x.線が継ぎ目なく描かれている y.色が継ぎ目なく塗られている z.形、バランスが不安定でない これらなどを含めた、いわゆる完成度のこと。 ちなみに思い通りに描けていたとしても、 その思い通りに状態を整えることが無ければ、 このAを満たすことはできません。 線がはみ出したりしていないか、 色がはみ出したりしていないか、 色の塗り方や形が不自然でないか。 完成度の高さはBに繋がることもあります。 ただしAが完璧でもBが無ければ人は見ません。 ただの正方形に興味を抱く人は稀です。 |