僕は元々差別意識が薄い。
何せ自身誇れるものがないから、差別意識など持ちようがない。少年期に朝鮮人少年と喧嘩した時は、何度か「朝鮮人、マイッタか」ぐらいは言ったかも知れない。しかし、普段が遊び友達のワル仲間であったから、そう言ったからといって、根に持たれた事はない。仲間であるから、他のグループに因縁をつけられた時は、お互いに庇いあったものだ。
被差別部落の少年たちも同様で、大人たちは知らないが、関係なく付き合っていた。僕たち家族は九州から鎌倉に引っ越して来た。高台の景観の良い地に住み、周りは文化人らしき人が多かったから、下町の様子など知らない。
祖母は被差別部落の人に色々とお世話にもなったし、僕もよく遊びに行ったものだ。仲の良かった少年の家は、四畳半ぐらいの一室の家で、バラック小屋であった。昭和30年代である。本当に当時の被差別部落は貧しかった。
後に、その付近を訪ねて行けば、もうその地名は無く、新しいものになっていました。同和対策事業でしょうか、それとも経済成長でしょうか、昔の面影はすっかりと消えていました。
其処が被差別部落であると知ったのは、大分後でした。何せ、被差別部落や同和地区の意味も知らず、本で知った訳ですからね。江戸期のような暮らしの開拓村に、小学校入学前まで住んでいましたから、耳にも入ってこない。
少年期の後半に、そのような地区があり、周りから差別されて来た人たちがあるということを知る訳です。青年期に入れば、差別語というものがあるというのを知りました。
しかし、その頃は差別語というのは、今のように多くなかったように思います。
僕が驚いたのは、土方(どかた)が差別語になるというものです。僕などは、あたり前に使っていたし、土方と言われる人たちも、それを自らが使っていた。何で差別語になるのか、さっぱり判りませんでした。
土を相手に作業を進める人たちの姿は、開拓村でも見ていました。
子どもの頃に、スコップや鶴嘴で見事に大きな穴を掘っていく人に感動を覚えたものです。汗と見事な筋肉の動きに神秘な力を見るようで、厭きませんでした。
土方という言葉は職業差別になるらしいのです。しかし、それを知った僕は、土方いなければ仕事が進まないではないか。汚れ、単調な職業であり、好んでやりたがらないものであり、蔑視されるならば、職業名を変えたって一緒じゃないか。建設労働者、建設作業員などと言っても、蔑視する輩は差別意識が起こる。上から目線の輩なんていうのは、やたら多い。
お隣の中国や韓国なんて、儒教的な職業差別が文化のようになっている。ビルや橋の崩壊、傾きが起きるのは、根っこに職業差別がある。基礎工事をやる作業員たちに、完璧に仕事をこなしたいという職業意識の高さが見られないのは、そこに誇りを持てない蔑視があるからだろう。
整形顔が多いのは見映えさえ良ければ全て良しとするように、あらゆる分野にその考えがあるのだろう。もっとも大事な内面の見えざるところに価値を置くという日本人の思考とは違うのだ。
僕は仕事柄、多くの職業の人に会うが、汚れる職業に就いていても、それを自らが馬鹿にする人はいない。謙虚に卑下する人はいるが、それも無くてはならないものであり、如何に大変であるかという事を言う。卑下しながらも、誇りは失っていない。
少年期に家出した時、僕も建設作業員として、昔、土方と言われる仕事や鉄筋屋のアルバイトもした。しかし、現場監督や行き交う人に馬鹿にされた事は一度もない。むしろ、現場監督はお世辞を言って、何とか工期に間に合うようにと懇願する。うるさい親方などを怒らせれば、こんな仕事は出来るか!と現場から、引きあげてしまう。
何せ、昔の親方連中や作業員も荒っぽいのが多かった。気に食わないと、現場事務所で暴れるなども珍しくはなかった。自分を卑下しながらも、俺たちの仕事も立派なんだぞ、という気持ちも強かったのです。
どういう視点から、差別語なるものに指定されたのか判りません。しかし、どこか負のイメージと重なるものは、全てその対象となったのでしょう。
五木寛之さんだったでしょうか・・・
昔、河原乞食と言われた芸能に係わる人たちの礼儀作法の美しさは、自らを卑下する謙虚さから生まれたものであると・・・
SNSでも、言葉狩りをやっている人がいますね。今は相当に少なくなりましたが・・・
負のイメージを与える言葉は、全ての差別につながるなんてね。
そんなこと言ってたら、ニートやホームレス、引き篭もり、生活保護者だってそうです。人間の頭の数だけ、それぞれが言葉にイメージを持つのです。
言葉には、使う人の意識が投影されている。だからこそ、本当に差別意識で使っているのかは、本人しか判らない。また、その時代を探るに於いて、差別と思われる言葉を排除してしまったならば、輪郭がぼやけてしまう。
差別意識の強い人は、使用する言葉に、その意識を投影させられるのです。人間世界には絶対的な平等はない。しかし、それぞれが尊い存在なのです。
命は尊(ミコト)なのです。
日本人は神聖なる天皇という精神的首座を中心に置く、有機体国家であり、一人一人が大事な無くてはならない存在なのです。それを思わないから、同胞を苛めるような差別意識が起こったり、まともとは言えない言葉狩りなどがあるのです。